昭和45年8月27日 朝の御理解 34分
御理解第4節「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
この方、金光大神あって、神が世にでた。ここのところまでの説明をいたしますと、金光教の信心がどのようなけいを辿って、金光教の信心が生まれたかということが分かります。いわえる説明『 (?) 』だいたい分かるわけですね。
なるほど、金光大神あって、天地金の神様がこの世に、現れなさった。金光大神あって天地金の神様のいわば、恩人でもあるということも分かりますね。そこのところの例えば、経緯は、の説明を例えば、分かるところでもいいんですね。
同時に、まさかのおりには、天地金乃神というにおよばん、金光大神助けてくれといえば、おかげを授けてあるとおっしゃる。そこのところの説明を聞いただけで、いつも『 (?) 』最後のところにですね、なるほど金光大神というところには、もう天地金乃神と同じものなんです。言うならば、天地の親神様と金光大神がかよいよってござるというのですから、なるほどこの天地金乃神様でもよければ、金光大神でも良いわけであります。
そこのところをここでは、「親先生」と、言うたほうが早いというのも、理屈は同じです。ブラジルに、金光大神に通じてござる、天地金乃神に通じてござるかぎり、なるほど、親先生でも、いわばおかげが早いというわりには、同じ意味なんです。親先生と金光大神。金光大神と天地金乃神様ね。天地というとくに、一貫性ですねを、ここではそこのところの説明を聞いて、分からせて頂くことも大変楽しい、有り難いことですよね。けれども、一番のここの大切なところはどこかというと、どういうようなところをとりまして、「金光大神の言う事にそむかぬよう、よく守って信心せよ」というところだと思うのですね。
ここのところは、説明だけでは分からない、もういよいよやはり体験を通して、自分で体得しなければならないところであり、また、体験を持っておるのでなければ、説明が出来ないところですね。
「金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。」はぁ大変な難しいこと。例えば、金光教の教典はだいたい、これだけのことですから。まぁ、百八十何ヶ条という、身教えを一日覚えておって、それを色んな自分の生活の中に頂いていくと、これは中々本当に『(?)』教えが、身に付かなければ、『(?)』またつかっていくと、まぁ可能と私は思うくらいに、『(?)』難しいと思うのですね。金光大神の教えられたことをそのまま行じて行くということなどはね。
そこのところを私共いつも思いますと、本当に、いわばそむいてばっかりおって、相済まんことだと。いわえる、自分の心にそむいた生き方というものが出来ない、もうそれが出来ないならば、ならまさかの時に、「金光様」とか、「親先生」とかと、言うたって、おかげを下さるはないような感じはする。だから、そういう難しいことではないと思うのですね。「金光大神の言うことにすむかぬよう、良く守って信心せよ」ということは、どういうことだろうか。またそれを守って、信心させて頂いておったら、どういうことになるかと。
これはもうおかげだけではなくて、信心成長ということにまでなる。信心が育っていく。私はこれはどういうことかと言うとね、こういうことだと思う、先日から、吉井のはたのさんが、入れ歯を外して休んでおられたところが、それがころっと無くなった。それで、お願いをされ、『 (?) 』けれども、中々出てこない。
『 (?) 』していったじゃろうといて、それでどうしても参っておる。歯をようして頂かないと、不自由ですから、『(?)』をすぐ頂くようにというて、お願いをされた。で、神様に私お願いをさせて頂いたら、まだ歯を作る事はいらんというふうに頂くわけです。ところが本人はやはり、入れ歯もしたいですからね、もう物は食べられんということばっかり『 (?) 』ならんというような、不平をしておられる。
それでももう、何日も落ち着かんから、まだ『 (?) 』でしょうか。と言うて、まだまだと、何回か、三回か四回か、おかげでね、『(?)』でしょうね。
ところがもういよいよ自分ではもう困られるという今度は、『(?)』ですけれども、困られながらね、有り難いことが段々分かって来たというのがですね、本当にその人間はね、その歯がね、一切揃っている時に、お礼が足りないということ。当り前の事と思っておったのも、もうかたいもんなんでんあるだけ食べるというごたるふうでですね、歯を弱らかしてしもうた。その歯が頑丈であるということをの、お礼すら申し上げていなかった。
それが、歯を痛める実感になった、そこでいわばお礼が出た。おかげで言えば、まぁ段々に『(?)』、まぁ入れ歯があれば食べることに不自由が無いということが分かって来た。
そこで神様が、その入れ歯の有り難さや『(?)』また、直また分かって来たね。本当にもうそれこそ入らん、はめておったらセからしかけんで、抜けてからちょっと、休む。
あぁもうめんどくさかのうと、思いながら、抜けたり、外したり、本当にめんどくさい事だと。もう入ればじだいするお礼などというものは、全然身もあらなかった。
今度頂いたら、その時に、この歯を頂いていた時のお礼が足りなかった、お詫びがまた入れ歯に対する感謝の心というものが、今までよりも深く分からせて頂くことができたという、毎日、毎日そういうお礼のお届けがあっておった。
本当に入れ歯のおかげだけは、本当に分かりましたというて、それから、またおかげになったときには、もう簡単にすぐ歯医者に行って、型をたられるようなこと『 (?) 』私自身もですね、そういうお取り次ぎをさせて頂いてから、こういうお知らせを頂くもんなら、本当もうちょっと早う言うたっちゃいいじゃんのね。
それをわざわざ『(?)』をさせなくても済んだのにと、まぁいうような気はせんでもなかったね。ところがです、お許しを頂いて歯医者に行かれたら、「明日来てくれ」型を取るからということであった。
そして、その日に歯が出てきた。もうちょっと置いてあったのが、ちゃんとどっか、箱の中に直してあって、それをころっと忘れてしもうたというわけなんですね。それで、またそのことを本気におかげを頂いていくにして、一日づれておったら、もう歯を型を取ってもらったりして、歯医者さんの方にも断わるにも断りにくいごたる事になっておったけれども、お医者さんは、「なら明日来てくれ、明日型を取るから」と言うその日に、いわば出てきたね。
そこでね、お医者さんに断りに行くとも、『 (?) 』はこういうことを言わせて頂きますからというて、お届けをなされて、向こうもだから、「それはもう良かったですね」で済んだわけです。無くなっておられる。
お医者さんも「それは困るよ」とは言われなかった。「はぁ良かったですね」と、本当にすみませんでしたと言うことで、すんだわけなんです。
本当にそれだけの事なんだけれどもね、私はいつも皆さんに、一番大事なところ、「金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ」と、言うことはそういうことだと思うのですね。
色々それこそ難しいみ教えを毎日毎日頂いてまいりますと、例えば、昨日の朝の御理解なんかを言いますと、本当にもう哲学に哲学と言ったような感じがいたしますですね。教祖も説いておられるこの簡単な言葉というか、教えの中にもそれこそ大変な大真理があったり、いわえる、教祖の哲学科長哲学科あるんですもの。それは大変だから難しいことなんだ。
昨日の御理解、人格ですね。いわえる、神徳を受けよ、人徳を得よ。あの御理解ですね。私共は人徳ということを、まぁ人徳という、人徳という『(?)』説明をしないと。本当に天地の親神様は氏子におかげを下さるということにいっしどうじんだということが私は昨日の御理解を頂いて初めて本当に分かった。
生まれつき日柄が良いとか悪いとか、天地の親神様は本当に不幸生だと、山本氏子のように、きれいな川につきなさるかと思うと、(笑い)ね、おかみざえでも作って下さるというか、そんなんこうひんじゃないではないかと。ところ、ですけれども、なら昨日の御理解を頂いていると、なるほどこうひんかということが分かるね。石川山ごたるば作るかと思うと、『(?)』も作っておられる。
けれどもね、そのお互いが一線所にならんだ時です、皆同じだということですね。人徳があるとか無いとかとね。あの人は中々徳者だと。人の信用をいわえるにんじゃと思いますね。人徳のある人だと。そういうのはね、いわば、本当の幸せには繋がらない。問題は幸せということにおいて一線所なんです。
『(?)』が悪るかっても、幸せになれる、根性が悪かっても、腹が悪くても幸せになれる。その幸せになれるということにおいて、同じなんですね。だから人徳があるとか、無いとかという問題じゃなくて、信心によってね、出来て行くところに、だから、そこに、変わってくることは、信心のある者と無い者は、親のあること、無い子の違い。そこのところから違ってくる。
信心することによって、親のある子との違いが出来てくるという、それは違う。それはいわえる、精進というかね。というように、まぁ昨日の御理解なんかも繰り返し、繰り返し頂いても色々またその御理解の言葉以外のものを感じるほどしにいわば難しい。
あれはもういっぺん頂いて下さいねもう大変味わいのある御理解ですね、昨日の御理解はね。
ですからそういうことをもう分かって、また、それを行じていかなければ、まさかの時に、金光大神といって、頼まれないといったようなことではない。また、そうでなければ、おかげは受けれんということではないね。金光大神の言うことにそむかぬようにというのは、私がいわえる、神様にいつも任せる心というものがです、いよいよ育てて行くというか、絶対のものにしていくということ。そして、それを例えば、本当に不自由なんだ、不自由なんだけれども、親先生がまだまだとおっしゃるから、待たせてお許しが頂くまでは、なら、入れ歯はいれまい。これはもし信心の無い人が聞いたら、どういうことになるですか。そりゃ、合楽の親先生は難しいことばっかりを言わしゃっるですのということになる。そげなんことを聞いて、はいはいと言うてから、笑えるにちがいない。「入れ歯ぐらいは、あんた作らなじゃこて早くから。」そげなんことまで神様にお願いをしてから、というふうに言うかもしれません。これはただ、入れ歯だから良いけれども、もっともっと、重大なこと、大変なこと、いうなら命に関わるようなことですらも、神様任せという生き方を体得していくことね。
その私、神様にいわえる、金光大神の言うことにそむかぬよう。金光大神の言うて下さることに任せる心ということです。してみるとです、ここの信心が段々少し分かってまいりますとですね、私はあんがいできるのではなかろうかと思う。
昨日の『(?)』さん、丁度九時頃、『(?)』だったことを伝えておったんです。それでお広前でお祭り。今度風で、家が大変、屋根が飛んでしまうようなことになっておったり。工場の方が、『 (?) 』してしまったから。それをお願いして、建てさせて頂くことになった。
家もいわば、たわれかかっているのです。もうずいぶん古くなっているから、去年も工事があった。そしたら、まぁ、まぁ待て、待て、それが今年、言わば、風が吹きたおしたから、もう『(?)』建ててはならないことになったけれども、前は『 (?) 』だったら、せっかく建てるなら、まぁ二階建てのこのような『 (?) 』ということで、そこで、業者についたところが、去年その当りにね、一万円も違う。三万円。去年は三万円。今年は二万で出来る。はぁなるほど、神様は一年待たせなさったはずだなぁと。しかも今度は、やはりその、なんとか保険に掛かっておってですね。
その、いわば災厄、というて良いでしょうか。保険に掛かってあったから、保険の方も去年建て変えていたら、保険はね、もらわれない。去年だったら、値段も一万円高いお金も払う。今度、風が吹きたおしたおかげで、お許しを頂いて、去年なっか場合の立派な物ができて、値段が一万円安うして、保険までが入る。
ところが、そこに行ってからですね、大工さんが言われる。これは、山本さんせっかっく住むなら、こっちの住まいの方も建てて長い。もう親には、『 (?) 』もう自分としては、ほんに飛びついて、すくに、させてもらおうかというごたるだったけれども、まぁとにかく、まだちょっと待ってくれんの。合楽に行ってから、お尋ねをしてから、その時に、昨日私『 (?) 』見えられた。
そしたら神様が、まだそれはまだ待てという、私の考えでもほんなこつこの次に一つ買えば良いと思った。ところが、ついでどんする、『 (?) 』の方は、そんなわけにはいかん。もうちょっと、練り上げた立派な家に、今ちょっとだけ作っとくといったようなものではなくて、もっと立派なものを下さろうとする、御神いんかも分からんと私は思うた。これは分からん、先のことだから。
ご本人もだいたいは、『 (?) 』したような、『(?)』を私は感じましたけれど、まぁまぁ今回はこれだけにしておきなさいということでありました。
すべてのことに、ごしんいん通りにさせて頂いておって、なるほど間違いが無いだけではなくてですね、そのね、任せている間だに御神いんというかね、神様の心が分かるのです。
はぁ、いわえる本当の意味において信心のけいこが出来るんですね。金光大神の言うことにそむかぬよう、ということのここでは、結局親先生の言うことにそむかぬようということにもなるのではないでしょうかね。
そしてその神のところをです、私色々にねらしてもらい、いよいよに分からせて、また分からなければおられないような事の事態というもののその新築というものがです。それを感ずるです、任せている間だに、はぁここに御神いんがあったんだなぁと分からせてもらうね。
それに、『(?)』さんあの歌の話だってそうでしょう。もうがりごのがりごのとても金どんだして買う物をです、カセットの『(?)』立派な物があるのに、親先生がね、『(?) 』のではなくて、勿体無いおかげとこぉ言われた。息子の『(?)』さんは、どげん考えたっちゃ、あげなん『(?)』しかもたくさん『 (?) 』売れ残っておる。本当は買い手が無いと。ところが、『(?)』の方に行ったら、まだ立派なその方の『(?)』がおるから、もうお父さんあちっから買おうと、親先生がそげん言いなさった、というわけなんです。けれども、『(?)』さんは、考えられたわけですね、『 (?) 』ちょっと待てと、親先生が言うて下さるなら、何か御神がんに違いなかろうと。
それでもまぁ、そのまぁ姿ごたるその『(?)』がね、とても普通のもんどんしったてちゃ育たん。それは、豚に違いは無いから。はい信心のある俺達が、そうさせて頂けという神様の御神いんに違いないだろうから、まぁとにかく、その『 (?) 』のところに買おうと言うて、買えに行った。
こげなん金ば出してから、買うもんなら、『(?)』と向こうが言いなさった。いや、ならそれはもういくらでも良いので、そのもろうてくるようにして、買われた豚が、なるほどそれは、づっと『(?)』をつけておりました。その度にお取り次ぎを頂いて、お願いをされた。だから、ふたんもしなかった。もうとなりほどの半分しかいなかった。けれども、いよいよ親豚に成長していた『(?)』が、子供を産むことだけは、分からなかった。『(?)』あるばい。ご一家が『(?)』先生産んだというて、片一方では、『 (?) 』それこそ子供を産むめいじんね。という、豚汁。ここを、こぉ、『 (?) 』いかれるわけなんですからね。
それだけではありませんでした。その間に、教えられること。これは私自身も教えること。しげおさん自身も、いやしげおさんだけではない、家族中の者が、なるほどお父さん、親先生任せになっとかないかんのという意味が良くわかった。それがもうその間でも不思議なことが次々と、不思議なと思われるほどしのおかげが頂いておる。
まぁおかげを頂いた、任したらおかげを頂くということではないですけれども、教えられるということが信心が育つということがありがたいのですね。
昨日、一昨日でしたかね、それはあやべさんの、娘がこられました。めいめいに自動車を持っておられるから、自分達も『(?)』から、面鏡をとられましたから。自分達のまぁ買って欲しい。せっかっく買うなら、まぁこのぐらいな物を買いたい。けれどもまぁ親先生にお届けしてから、まぁ良かと言いなさったら買うばってん、だめだったら、『 (?) 』よ。それはもう、もちろんね、そのだいたい信心が分かってきたら、親先生が買ってはなさらないなら、買わん。なお、答えてくれということだった。お願いをさせて頂いたら、まぁ少し待てということだった。
そういう時にね、もうさっぱりと諦める。諦めるということでなないけど、神様任せになれる。任せになれているということがね、ありがたいのですけれども、それから、その任せることによって、いよいよ信心がまた分からせて頂くということはもっと有り難いことになる。いわえる金光大神の言うことにそむかぬようにということになるのです。
自分はもう一切を神様にお任せしているという心の安らかさがね、これが他のすべてのおかげにつながってくるね。
その心が言わばおかげをキャッチするのですね。ところがね、どうも自我の強い人というわけでもないでしょうけれども、信心が少しこうしょうになってくると、親先生が言うことがもうめんどうくさくなってくる。それけんっち、親先生の言われる通りにして、結局もうかるとか、良い事とかだけには限らないということがたくさんあるということ。
親先生の言われる通りにして、かえって損したという事も出てくるということね。だから言うなら、自分勝手にお願いをして、自分勝手にやはりおかげを頂いて、なるほどそれはおかげを受けましょうけれどもね。
もう私は信心が成長するということは、絶対神様任せにならなければ本当の信心の成長にはならないと。いわえる我流の信心になるとね。
そういうところをです私が、金光大神の言うことにそむかぬようにというのは、いわえる、よく守って信心せよ。親先生が言われることをね、お伺いをさせて頂いたら、右と言われたら右。それをです、守って信心していく。
例えば教えの一つ一つを守って行くということではないとね。勿論そのような信心が続けられてくるときに、教祖様の教えて下さる見教えの深さも分かる。また、ここでの信心ぶりというものが段々出来て参りますと、それが身についても参りましょうね。
けれども、私は一番金光大神の言うことにそむかぬようにということは、その事態事態をですね、お取次ぎを頂いて、言わば、お取次ぎの働きにみだれるという事、任せるということ。そこに、お取次ぎの働きということのです、微妙さね、デリケートな働きというものを感じることが出来る。そこに、金光様の御信心をさせて頂く者のです、本当の幸せをいよいよ感ずることが出来るだろう。
今日は、金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよということを、今までは私共はやはり教えの一つ一つを身につけて行くことだというふうに頂いて、感興た。それで今日は、ここのところをいわえる親先生任せになるということ。神様任せということは即親先生任せということだね。
三代金光様が、それこそ合楽の為に御理解を下さっていると思われるね、頂きました。「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる」と仰せられますからとこぉね。ですから、私共がですね、自分の例えば商売なら商売でも右にしたら良い、左にしたら良いと判断がつきますよね。判断がついて、なるほどその判断が当っていくね。天地いからずに例か。おかげを受けていく。それはね、ただ自分の判断が間違わずに、当たって行くというだけのおかげですね。だから自分の思うようになっているだけでしょう、そのおかげが。 ところが氏子が神様任せならというその任せてから頂くおかげというのはね、なるほど自分の思いようにはならないかもしれないけれども、任せて、任せて、任せる、任せて頂くそういう段々していくうちに、信心の成長はもちろんですけれどもです、そこにはね、神様の願いが一人一人の上に掛けられる神様の願いが成就していくのです。
この神様の願いの成就というのは、私共がね、それこそ先ずで計ったようなおかげが無い。それこそ限りない物につながっていくね。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからね。その先はもう私共任せに神様がなって下さるということになったら、このおかげはもういよいよ無尽蔵のものにつながっていく。いわえる、そこのところが繰り返し出来て行くところに、神様のご信用、どげなんことを言われたっちゃ、あれはワシの言うことをきくということになった時にです、神様が特別のおかげの手を指しなさらないはずが無い。
ですから、任せればすぐ、例えばなら、やまとならやまとさんのことでもです、どうしていつも待たなければならんじゃろうかということは分からなかったけれども、一年経って風が吹いて見て、分かるようにです。
これがまた10年先に分かるようなことにもなるかもしれん、色々。それまでは分からん。だからある人は、やまとさんなんか馬鹿じゃんの、そげなんことば出来て、いっちょ神様にお願いをしてから。もう本当に早う建てんのう。と、例えば、言うたごたる人達もあるかもしれん。けれども、任せているその事事態がです、本当のところのおかげにつながる、いわば手立てなわけです。
金光大神のいわれることにそむかぬようにと。言うならそういうような事ね。ですから、いや金光様の御信心ちゃ、その詔勅的だなぁというふうに感じたり、言うたりする人がありますけれどもね。
私はこのような積極的な生き方は無いと。親先生に任せきるとか、神様任せに生活をしているという生き方はですね、いかにもあなた任せの悠長な。言うならば、消極的な生き方のようではあるけれどもです。任せるということは、もう命を任せあるのですから言うならば。
全てから任せてあるのですから、こんな積極的な信心があるとは思われませんね。いわえる、積極的というよりも、今日いわば積極的なのですね。そういう信心をお互いにつけて、まさかの時には、天地金乃神と言うにはおよばぬ。金光大神助けてくれといえば、おかげを授けてやるということはですね。私はお徳を受けるということだと思うのです。
神様は良いなりにおかげを下さる、言うて、聞いて下さるということでもね、『(?)』本気でこの神様任せとか親先生任せというものはもうピンからキリまであります。それをいよいよのところのものまで、任せきれる信心をです、小さいことから積み上げてね、確信を持って任せきれれる信心。
そして、任せきっての生活がいかに、安らぎの生活であるか、安心のおかげというのは、このようにして頂けれるんだという信心の成長を願って、いよいよ金光大神の言われることにそむかぬよう、信心させて頂くおかげを頂かなければでけん。
どうぞ
※『(?)』聞き取れない言葉が52個あります。
末永あい